斎藤千代夫に聞き書き 農村文化研究所・佐野賢治所長

斎藤千代夫に聞き書き 農村文化研究所・佐野賢治所長 /山形

戦地で詩情豊かな絵

第二次世界大戦中に旧満州(現中国東北部)で、旧ソ連軍の監視などの合間に詩情豊かな絵画「北満従軍画集」を描き残した米沢市出身の斎藤千代夫(1921〜2008)。生前に聞き書きした公益財団法人、農村文化研究所の佐野賢治所長(65)は「時代背景をうかがわせる第一級の資料。戦争という非常時に自己を失わなかった兵隊の一例」と話す。どんな思いで描いたのか。作品の特徴や斎藤の思いなどを聞いた。【佐藤良一】

−−いつ聞き書きしたのですか。

1999年の5月と8月の2回、斎藤氏のアトリエ(同市李山)で行いました。絵の特技が軍隊で評価され、戦闘詳報班に属しソ連軍の動きをスケッチして上官に提出していますが、その絵は残っていません。軍務の合間に描いた約800枚の絵を油紙に包んで日本に持ち帰りました。戦地でも画家でありたいという信念を一時も忘れずに絵を描いたそうです。

−−どんな絵を描いたのですか。

敵情を監視して休憩中に昼寝する兵隊、敵兵と格闘する兵士などです。民情調査に出かけては現地の町並み、農村、人物、風景などを描いています。慰安婦や開拓団の少年の絵には故郷で窮乏生活を送る弟妹の姿をダブらせていたのではないでしょうか。風土病にかかった現地の子供の絵などを見ると、庶民への共感や人間愛がにじみ出ているように感じます。

−−ロマンチックな絵もありますね。

ソニアというロシアの娘を空想を巡らせて描いています。当時20代の多感だった斎藤氏の女性に対する慕情がアムール川の心象風景に託して表現されています。スケッチに詩を書き加えた物語風のシリーズ絵も多い。軍隊で、よくこのような絵を描くことが許されたものだと驚きました。

−−絵を志したのは。

尋常小学校の頃、グラビア雑誌の口絵を見て画家になると決意したそうです。父親の事業が破産してから関西や東京で昼に働き、夜は絵画の専門学校に通って挿絵画家を目指しています。二科展を見て油絵画家を目指すようになったと聞きました。40年に徴兵検査で乙種合格し、2年後に軍隊に入隊しました。

−−晩年は。

45年4月に帰国しますが、米沢の実家に帰っても貧しく、家業の雑貨店などに専念して絵画活動を中断します。20年ぶりに絵を再開した際は「初恋の人に会った気持ちだった」と言っていました。特に四季折々の飯豊山をキャンバスに残しました。雪が積もった柿の木の絵は8回も日展に入選した代表作です。

−−画集の保存、公開は。

戦意高揚の戦争記録画とは対照的に戦時の日常を等身大に描いていて極めて貴重です。目録作成とデジタル処理の後に、どのようにしていくのか、遺族と検討します。

■人物略歴

さの・けんじ

1950年、静岡県生まれ。79年、筑波大大学院歴史人類学研究科修了。愛知大講師、筑波大助教授などを経て、2001年、神奈川大教授(民俗学)。日本民具学会長などを務める。13年から公益財団法人、農村文化研究所所長。著書に「宝は田から “しあわせ”の農村民俗誌 山形県米沢」など。

 

毎日新聞2016年8月2日 地方版

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