【コラム】楽は薬

遊びをせむとや生まれけむ 戯れせむとや生まれけむ

遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ   梁塵秘抄 359

西洋ではギリシャ時代から、音楽の中に神を見る考え方がありました。したがって、音楽を学ぶことは人間にとって大切な、価値あることと考えられていました。教育の分野でも、その大きな目的である「人格の陶冶」にとっても音楽の果たす役割は大きかったと考えられます。

ギリシャ時代に音楽を重要視した哲学者として、ピタゴラス(BC582~BC493頃)があげられます。タレスに始まるイオニア派哲学に対するイタリア派哲学の創始者として有名ですが、本稿でも取り上げた「ピタゴラス律」の考案者としての仕事は、一般にはあまり知られていないかもしれません。しかし、音楽の世界ではよく知られた話です(もっとも、中国の三分損益法については音楽の世界でも知る人は少ないが)。

ピタゴラスという名を聞いたとき、すぐに思い浮かぶのは「三平方の定理」、別名「ピタゴラスの定理」と呼ばれる数学の定理でしょう。

それは、直角三角形の長辺の二乗は、他の辺をそれぞれ二乗したものの和に等しいというものです。この式は中学時代の記憶を掻き回せば、どこかに潜んでいることでしょう。

ピタゴラスは一方、秘密結社的な教団を組織していたとも考えられています。権力者との衝突を嫌っていたとも考えられますが、誰にも邪魔されずに真理を求めたいという思いも強かったのでしょう。数学と音楽を愛し、常に神々を讃える歌を口ずさんでいたといわれます。

ギリシャ語の「コスモス」は秩序と美を表す言葉ですが、ピタゴラスは宇宙のことをコスモスと呼んだ最初の人であり、生涯にわたり、完全な調和を求め続け、天界の完全調和を具現する音楽をこよなく愛した人でした。彼にとって、宇宙こそが最高の美であったのでしょう。

音楽と数学や物理学には、ある共通した部分があるように思われます。これらが対象とする領域に表れる現象にはある規則性があります。古代人はその規則性の中に神の意思とでも言うべき何者かを感じていたのでしょう。だからこそ、ギリシャの学校であるスコラで学ばれた七自由科の中に、音楽は重要な科目として位置づけられていたのです。日々の生活に追われる果敢ない存在である人間を、その桎梏から解き放ち、神々の真理の世界に導くものとして、音楽は人間世界に不可欠のものと考えられていたのでしょう。

近代においても、たとえば「不確定性原理」のハイゼンベルグはピアノの名手であり、シュバイツァーはオルガニストでもありました。彼らが楽器を演奏する姿を想像すれば、物事を深く追求するにはその人の魂が浄化されていなければならないことを感じないわけにはいきません。浄化された魂が人間には不可欠であり、また、人間本来の姿でもあるのでしょう。そんな心を持ったとき、人は真理に出会うことが出来るし、真理とは神の意思そのものだったのです。

最近はMIDI音楽に興味を持つ人が多くなっています。つまりコンピューター音楽ですが、そこでは音楽はいくつかの数学的要素に分解され、再構成されるというプロセスを経ることになります。音色は音の波形の組み合わせと理解され、強弱は音波の振幅の大小で表されます。さらには、音の高低は振動数そのものです。この振動数については、対数グラフを用いて表すことが人間の感覚とよくマッチすることもここに記すに値することと思われます。

これらを全て数値化して記憶するので、その値を計算し直し、ある種の旋律を歌わせるにはピタゴラス律、和声の澄んだ響きを求めるなら純正律、1つの楽器で自由に転調するなら平均律と、1台のパソコンで瞬時に操ることが出来るようになっています。どう考えても、音楽と数学、物理学とは共通するものがあるようです。

ここまで、音楽という言葉で音世界を括ってきましたが、古代音楽と近・現代音楽とは聞いた時の印象が異なります。どこが違うのでしょう。確かに、用いられる楽器や、リズムは違います。しかし、本質的には音楽が表現しようとするものが違うとしか言いようがありません。

古代から中世にかけての音楽が旋法を主にしたものであったことは先に述べました。それが最も洗練され完成された形がグレゴリア聖歌でした。その内容は、基本的には「神への頌歌」であると理解されます。

神、あるいは真理などの概念は、ある種完成されたものであり、変化や進行、移ろう感情などとは一線を画します。したがって、悠久の時の流れの中で、変わることのないものが神あるいは真理なのであり、それを頌め讃えるための音楽にも変化や進行感などは不必要であったのでしょう。

しかし、中世も後半になると、ヨーロッパでは十字軍の失敗や教会の分裂などによって、世俗の権力が教会の力を上回るようになってきます。その結果、当然のこととして神と人間との関係にも変化が現れてきます。

これまでは、神=キリスト教会は人間に対して圧倒的な優位にありました。神は不変の真理として世界に君臨し、人間はその偉大な存在の前に、あまりに小さなものでした。したがって、この世界には人間の感情などが省みられる余地はなかったのです。結果として、変わることのない偉大な神への捧げものとしての音楽も、変化の少ない、時間の中を漂うがごとき音の流れが求められたものと思われます。

そうは言っても、1日の流れを見れば朝があり、昼、夕、そして夜となることも神の摂理ですから、その時々の音楽が求められたであろうことも理解できます。そこで発展したのがドーリア旋法に始まるグレゴリア聖歌の旋法群であったのでしょう。高度に様式化された各旋法に溶け込むことで、神との一体感や神の恩寵を感じつつ、魂の浄化を得ようとしたものと考えることが出来ます。

やがて、各地の王が力を持つようになり、また、都市の繁栄を背景に世俗の人々が自意識を高めていくと、祈りの主体が人間の側に移動してきます。

絶対的な神の思いを受け入れる祈りから、日々の生活の中にある苦しみや悲しみ、あるいは喜びを神に訴え、あるいは語りかけることによって、神の許しや癒し、そして祝福を願う祈りになって行きます。

このように、祈りの主体が人間の側に移ってくると、それを反映して音楽にも変化が起こってきます。12通りもあった教会旋法は急速にその力を失い、進行感を表現しやすいイオニア旋法と、人間の感情表現の幅を増すエオリア旋法に収束され、他の旋法は捨てられていったのです。文化が1つの方向に向かって発展するものと考えれば、捨てることによって新たな発展がもたらされた事例として、これには興味を引かれます。でも、表現の内容が人間の感情に移ってきたことを考えれば首肯できることではあります。

この淘汰をもたらしたのは、技術的にはポリフォニーと和声の考え方の進歩です。人々はこれを支持しました。音楽は「神を頌め讃える」ことから「神の意思、真理を知り得る存在である自分に対する喜び」を表現する、いわば「人間讃歌」に変化していったのです。

この流れを強力に推進したのは、やはり、ルネッサンスだったのでしょう。「文芸復興」と訳されますが、ヨーロッパ人には古代ギリシャの文物が人間の自由な活動の証のように思われたのでしょう。現在のヨーロッパでも、今もってルネッサンス期の燃え残りのような情念が奥深いところでくすぶっているようにも思われます。

以来、神の鎖から解き放された音楽は急速に発展し、バロック、古典、ロマン期と壮麗な音世界を構築してきました。しかし、現在では、クラシック音楽の世界は低迷しているとの感は否めない状況にあるといえるでしょう。

代わって発展しているのがアメリカンミュージックから進化してきたポップスとジャズミュージックでしょう。共に調性とリズムを中心とした、まったく人間主体の音楽で、表現する内容も相聞と辞世とまではいかなくとも、それに近いものがあります。特に、ジャズの世界ではその音楽理論は行くところまで行き尽くした感があります。そのなかで、演奏者は新たな音つくりを模索し、ある人は中世の教会旋法に回帰したり、ある人は新しいリズムを開拓し、また、アジアやアフリカのフレーバーを取り込んだりしながら、多彩でスリリングな演奏を展開しています。

さて、アジアにおける状況はどうだったのでしょう。

中国での音律についての考え方は、いわゆる三分損益法で、ギリシャのピタゴラス律と原理的には同じものということが出来ます。しかも、この法が完成されたのは周の時代とされ、ピタゴラスよりもさらに時代を遡ります。周の時代の音楽がどのようなものであったのかは知る由もありませんが、漢の時代になるとその様子がやや明らかになります。古墳から当時の楽器が発掘されたことによるのですが、それでも考古学の範囲を大きく出るものではないようです。まして、各王朝ごとに度量衡を新たに定めるという中国の習慣もあり、はっきりしたことは分からないのが現状です。

中国では王朝の儀式音楽や孔子廟での祭式音楽がその中心でした。その環境のなかで、音楽に対して哲学的な意味を感じていたことは、西洋におけるそれと似たものがあったことでしょう。特に、三分損益によって作り出された音列に、人々は畏敬の念を持ったであろうことは想像に難くありません。

やがて唐の時代になると、周辺の民族の持つ多様な音楽や文物が長安の都に集まってきます。西域、インド、ベトナム、北方系などの音楽がそこで融合し、新たな表現も生まれていったことでしょう。

宮廷においても祭儀式用の伝統音楽だけではなく、巷で演奏されている音楽が導入されると、楽しみのための音楽という側面が大きくなっていきます。そうなれば、人間の感情を表現するために音楽は変化していきます。

具体的には音楽で用いられる宮、商、角、徴、羽の音列に変化が起きました。その最初のものは律角の導入でした。これによって、より滑らかな音の進行が可能になりました。

長安での国際色豊かな音楽は、シルクロードを介して日本にも伝わります。遣唐使として716年に入唐した吉備真備は天平7年(735)に帰国する際、則天武后の撰とされる「楽家要録」全10巻と、律管をもたらしました。ちなみに黄鐘は437Hzであったということです。

この時にはすでに世俗化の流れは止められない状況であったと思われます。日本に導入された雅楽も平安期には国風化の流れの中で、例えば嬰商、嬰羽などの変化音が使われるようになり、世俗化はさらに進んでいきました。

余談ですが、幕末期に、中国の宴会音楽を我が朝廷の祭儀式音楽としているのは如何なものかという議論がありました。今もってそれに対する答えはないようですが、面白い話というほかありません。

日本雅楽は、やはり、旋法による音楽ということが出来ます。しからば、ヨーロッパで起きた旋法音楽から調性音楽への変化が日本雅楽にも現れてきたのでしょうか。答えは否でしょう。

しかし、その方向は異なっていますが、変化そのものはあったと考えられます。例えば「能」です。能の音楽は笛と打楽器、それに謡(うたい)から成ります。能管の原型は雅楽の龍笛ですが、管の途中に「ノド」という内径の狭い部分を持っています。これによって、正確な音程を出すことができなくなりましたが、「ひしぎ」という高く鋭い音を出すことが可能になり、また、音程を犠牲にしたためにメロディアスな甘い旋律が打ち消され、全体としてメロディーの解決を目指す進行ではなく、緊張感の解決を以って音楽を進行させる方法論を確立しています。

また、謡の部分でも、かつては主音の上下に幾つもの音を配し、まさに歌うように演じられていたらしいのですが、近年ではその音を失い、より単調ではあるが力強いものに変わったとされています。これは優れて日本的、あるいは武士的な独特の感覚であると考えられます。

歌舞伎も江戸の町人文化を背景に独自の方法で音楽を作っていますが、共通して言えることは、和声を持つ方向には進まなかったということでしょう。したがって、音楽理論も発展していません。このことは、日本人のメンタリティを考えるとき、大きなヒントを与えてくれるように思えます。

東洋では早くから音楽の世俗化が進んできました。しかし、その割には楽器そのものの発明や改良が少ないように思われます。これも理論の側からの要請が少なかったからということなのでしょうか。また、日本独特の家元制度などで権威を独占したり、朝廷の権威を隠れ蓑にして自己の立場を守ってきたりという側面も影響しているのかも知れません。

日本は地理的にも歴史的にもアジアの一員です。しかし、音楽的には、特に最近はアメリカ株式会社のアジア支店といった状況です。それが良くないとは言いませんが、私たちにはもっともっと豊かな音世界が残されています。日本雅楽には平安人が感じていた、環境のわずかな変化を「もののあわれ」として最大限に楽しむという感覚が良く保持されています。この雅楽に親しむことで、日本人としてのアイデンティティをよみがえらせることの入り口に立つことが出来るかもしれません。

現在は調性音楽の最盛期です。しかし、先人の所産としての古代音楽を意識することは、人間としての深みを得る上で必要な1つの技であると考えられます。

                   2016,8,19(再掲)

                       山田 一郎